益子時代・1

自分は大学を中退してこの道に入った。年のせいか、ちかごろその頃のこと、いわゆる修行時代のことを良く思い出す。

初めて入った窯場は益子の小笠原窯。共販センターのある城内坂を越えて、浜田さんの所を右に折れて500メートル。道路左側に薪が高く積み上げてある窯場だ。薪が積み上げてあるということは、当然窯は6部屋の登り窯。それ一窯のみ。小口窯三代目の先生の小笠原再二さんと二代目だったその父上、職人さん一人と我々修行中のいわゆる”若い衆”二人、それにパートのおばちゃんふたりの計七人で常時作っていた。窯焚きは二ヶ月に一度、その時は人手が足りなくて臨時に窯焚き職人を二人程頼んでいた。今から35年も前のことだが、それでももう薪窯だけの窯場は少数派になっていてほとんどのところがガスか、灯油窯ばかりだったから今思えばいい経験をさせてもらったと思う。
ロクロはいまだに右足で蹴りこむ蹴ロクロだったし、水は井戸から、釉薬の灰は囲炉裏から取っていた。作るものといえば、先生の作品が登り窯の一番いい場所に少し入るだけで、ほとんどはその頃はまだ良く売れていた例の益子焼らしい益子焼ばかり。だから窯の一番の部屋だけ還元で、二番から上は酸化で焚いていた。

窯は一部屋が幅4メートル程、中は大人の背丈程だから、もうこれでもかというくらい点数が入る。窯詰めで5日ほど、焙りに2日、6部屋の攻め焚きに丸一日。窯だしまでの冷ましが3日。
当然交代で窯の番をするわけだが、我々若い衆には攻め焚きはできないから焙りの2日間を任される。2歳先輩の倉升さんと焚き火のようにチロチロと燃やし始める。初日からその焚き口が大火事にでもなりそうなほどの勢いになる2日後まで、交代で火の番をする。そのあとは丸一日六つの部屋の攻め焚きだから、もうヘロヘロなのだが一部屋づつ交代で焚き上げる職人さんのサポートをしなくてはならない。一部屋で大体4時間。4時間ごとに工房のロクロ台に横になって休憩を取る。
焚き上がりは大体明け方になって、先生の家の風呂で汗を流して、朝っぱらから「山祝い」といって宴会が昼ごろまで・・・。
もうフラフラになってアパートのせんべい布団にもぐりこみ、翌朝まで死んだように眠った。

起きると翌日までの連休。窯が焚きあがるまで土日も無い。だから二ヶ月ぶりの休日。高校や大学の友人に会うにはこのときしかないので、どんなに疲れていても遊びに出かけた。といっても一月の給料が一万五千円!だったから、東京まで行って帰ってくるだけで二ヶ月掛けてためた小遣いがパー。朝食以外食費はかからなかったので何とかなっていたわけで。それにしても今思うと良く勤まったなあ。(もっとも小口窯には二年しかいなかったけれど・・・。)それでもそれが当時の若い衆の給料の相場で、食事の一切付かない窯場で4万円ほどだったから結局はみな同じような生活水準なわけで、全国から来ている若い連中みんな貧しいなんて感じなかったんじゃあないかな。
そんな連中と一緒にたまに宴会をやるときなど、一人500円づつ出し合って安酒と柿の種を買って、肴が足りないからまわりの畑からちょこっと野菜を失敬したりした。(ゴメンナサイ)日本中から陶芸の技を身につけようといろんなものをなげうって来ている癖のある連中ばかりだから、それはもう普通の宴会にはならない。色あり、議論あり、喧嘩ありで華やかだった。みんなおもいっきり生きていた。

次回は蹴ロクロと薪割りについて。

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  1. 所属していた大学美術部の新聞に寄稿しました。

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